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むき出しの自然に向きあい、
仲間とぶつかって
生まれるものの価値

柳沢昭夫
(文登研所長、1940年生まれ)



遭難の多発に思う

 2006年、北アルプスでは、二月、三月、四月、そして、また十月と遭難が多発した。
荒天下の凍死(低体温症)や雪崩に巻き込まれたことが、主な原因であった。
荒れる冬山の恐ろしさや雪崩の怖さは、今も昔も変わらない。
だとすれば、やはり、登山者の側に、問題があると考えざるを得ない。
 
 1989年、真砂岳の遭難の教訓は、継承されなかった。風雪と寒気にさらされる恐ろしさをわすれたのだろうか。ビーコン、ゾンデ、スコップを持ち、ビーコン探しの練習を多少積んだところで、雪崩に巻き込まれればよほどの幸運に恵まれなければ助からないことを忘れたのだろうか。
 山登りにおけるリスクを、科学的、合理的に排除していく努力はもちろん大事である。しかし、大自然を舞台に展開する登山には、不確定要素が多い。曖昧な推測により、状況判断をせざるを得ない。この曖昧な推測をより正確なものに近づけていくのが、感性と経験の集積である。
 情報や知識をどれだけ集めても、現場で、山を見て、雪を見て、風雪や寒気にさらされて、どこをどう登るか、そこにはどんな危険があるか、雪崩、滑落、荒天、多くの危険を想像し、知識や情報を感性や経験と照らし合わせ、チームで考え、状況を判断することが最も重要である。それが山登りの原点である。
山を見ることから始まる、単純な原点に帰らなければいけない。



ノウハウとマニュアルの席巻

 近頃は、若い人が山岳会へ入ってこなくなった。厳しい寒さや風雪の待ち受ける自然の中で、重い荷物を背負い、汗水たらして苦労する山登りは敬遠される。情報や知識は手に入りやすくなった。技術は、プロガイドなどの講習会で習得する方が合理的であるかもしれない。山岳会へ入らなくても、必要なものは手に入る、と思っているのだろう。
 登山雑誌やインターネットを開けば、ルートの情報、装備のカタログ、技術の解説、気象や雪崩の知識、雪崩捜索(ビーコン捜索)の仕方など、いわば、いろいろのノウハウが載っている。ヒマラヤ登山さえ、かつて苦労して手に入れた情報より、格段に多量の情報を簡単に手に入れることができる。
 そしてその情報で、山登りを構築する。ノウハウとマニュアルで解決しようとする。しかし、それでいいのだろうか、そこには、人の臭いがない。立ち向かう、努力する過程がない。汗を流して、寒さに震えて、雪崩におびえて、言い知れぬ不安と戦う人の臭いがない。心躍るものも、不安に震えることもない。
 情報とノウハウとマニュアルを頼りに、努力する過程を省略し、不安におびえることもない、経験の少ない登山者が、厳しい自然にさらされ、情報にない状況下に陥ったとき、情報と現実が一致しないとき、どんな対応ができるだろう。遭難の多発と安易な救助依頼は、こうした問題点を提示していないだろうか。



生身の体験の価値

 自然に対峙するとき、仮に、科学的な最新の知見を、知識として頭の中に入れていたとしても、経験のない知識、感覚的裏づけのない知識は、現実味のない知識であって、頭の中に入っていても、役に立つ知識とならない。
 だが、たとえ頭で学習した知識でも、経験と感覚を加味すれば、知識として役に立つはずである。つまり、経験を重ねることは、一つは、経験と感覚で思考し、状況を把握し、判断する、つまり勘を養う上で。二つは、知識を知恵として役立てる上で、経験の持つ意味は大きい。
 「勘」とは経験などの集積による経験則と感覚的思考による知見である。今の登山に見られるように、情報を集め、知識を学び、講習会で技術を習得しても、経験という検証を経ない情報や知識、技術は、現実的には、山登りを構成する力にならないのではないだろうか。
 最近、厳しい長期間の冬山縦走や困難な冬の岩壁を登る登山者は激減していると言う。だとすれば、稜線で、風雪と寒気にさらされる恐ろしさや降雪、塵雪崩、きのこ雪、不安定な積雪と格闘した冬の登攀のつらい経験が継承されなくなるかもしれない。
 自然の猛威に翻弄され、なす術を失うかも知れない冬山登山では、経験の持つ意味は大きい。しかし、個人的な経験の蓄積など高々知れている。だとすれば、経験を集積する方法について、今一度考えてみることも大事であろう。経験は、人に蓄積される。その人に蓄積された経験を、集積するのは、人と人とのつながりであり、山岳会の機能の大きな一つであったはずだ。
 だが、人と人のつながりが希薄になって、さらに厳しい冬山山行が減り、経験と、それを集積する機能と、それを共有し、継承する機能を喪失しつつある。
 一つは、山登りが多様化するにつれ、一つの目標を定めて山岳会として合宿するようなことがなくなり、山岳会として経験をうまく集積できなくなってきた。二つは、冬山縦走や冬季岩壁登攀者が減少し、厳しい冬山経験の集積が不可能になってきた。そろそろ、生身の冬の縦走や登攀経験を話す人がいなくなりつつある。三つは、情報システムの発達にともない、合理的な情報のやり取りはあっても、生身の人と人がぶつかりあうような対話が減少し、相手の否定的側面やいやなところを含めて、厳しい対話の中で築いてきた信頼関係が希薄になった。お互い小利口になって、当たらず触らずの仲良しクラブになってきたのかも知れない。



チームの意味と人間関係

 実際の登山チームは残念ながらレベルの高い等質チームではなく、知恵のある者・ない者、未熟な者・経験の深い者、強い者・弱い者、さまざまな人間で構成される。
 判断とその意思決定を謝れば生命の危険に関わるような危機的状況下では、冷静に思慮深く対処できることはむしろ希薄で、判断を人に任せる者、「どうでもいいや」となげやりになる者、判断しない者、判断しようとする意志さえ失う者、願望に基づいて判断する者、可能性をとらえられない者、困難を拒否する者、耐えることを拒否する者、否定的要素を拡大する者、全体をとらえられない者、部分にとらわれる者などなど、人の弱点を露呈し混乱に陥り、最悪の場合にはチームが分裂することさえある。
 ことに、混乱の中に放り込まれた経験の不足、満ち足りた社会生活による感性の鈍化などが原因となって、危機的状況を拡大する。こうした状況をチームとして乗り越え、生きて帰るために、最終判断と意志決定をリーダーに託している。
 当然、チームの判断はいくつかの誤謬を含んでいる。しかし、それが精一杯のチームの判断であり、チームがバラバラになって遭難しないための、判断と意志決定である。もしかしたら、チームの判断に含まれている誤りが原因で遭難するかもしれない。しかし、それを覚悟の上でチームを組み、リーダーに最終判断と意志決定を託している。
 死ぬかもしれないリスクを承知の上で、真摯に命を託し、一連托生のチームを組み、山へ向かう覚悟が必要である。チームは喧嘩したり、いがみあってもいい。だがその根底に、お互いを思いやるヒューマニティーが溢れていなければならない。それが山に挑む者の尊厳であり、誇りである。最も大事なのは、生きて還ることであるのはいうまでもない。そのために死ぬかもしれないリスクを覚悟の上で、信頼関係を築いてゆく仲間でありたい。
 経験を集積し、経験から学ぶには、ダイナミックな人と人の関係構築が大切だ。クラブやチームにおける対話と経験の集積、継承機能の再構築を考えてみよう。クラブに所属しない人は、日頃の山仲間と生身の経験を交換することや、緩やかな形のチームのあり方について考えてみたい。形骸に縛られないだけいいチームができるかも知れない。
 岳連や日山協、ジャーナルは、技術やノウハウの提供ではなく、生々しい経験を提供することに力を注いでもらいたい。



未知への挑戦はディフェンス力を高める

 登山は、未知な領域で、より困難な課題に挑戦してきた。私たちは未知であるが故に、そして、より困難を追及するが故にリスクを背負っていることも承知している。リスクを排除すれば、山登りは、後ろ向きになるかも知れないし、挑戦的であれば、リスクが増大すりことも、また、事実である。
 私たちはこの狭間の中で、一方で安全性を求め、一方でリスクを覚悟しながら、登山を展開してきた。登山は、挑戦的でありながら安全を追及する展開が、登山の健全性なのである。このことは、一見相反するようでありながら、矛盾するものではない。なぜなら、登山史をふりかえれば、挑戦的登山が展開されるとき、それを支える防御の展開を必ず伴っており、むしろ、ディフェンスの向上が登山を推し進めたとも言えるからである。
 ディフェンスとは、①技術的には、ロープを使って安全を確保すること。②荒天の中では、緊急避難のシェルター(雪洞など)を作ること。③雪崩を避けることなど、危険を予測し、回避する状況判断とそれを実践する力である。言い換えれば、クライミングを防御し、危機から脱出することである。
 数多い登攀で、経験する墜落はそう多いわけではない。しかし、万が一の墜落に備えて、確保の訓練と研究を繰り返す。単に墜落を止める訓練ではない。プロテクションをどう構成するか、クライミングをどう構成するか、創造性が必要な訓練と研究である。
 ディフェンスの力は、こうした確保と同様、万が一に備える力である。実際の山で、技術を学び、訓練し、どうすれば、安全を確保することが出来るか、状況判断力を高め、登山を構成する力を高めることである。そうした訓練の過程で、感性を磨き、経験を集積し、生きて帰るための知恵と技術を身につけることである。対処マニュアルの作成ではない。マニュアルの精度を上げることでもない。創造性を要求される。それはまた、仲間とどう信頼関係を築くかということでもある。
 未知なる領域に踏み込むとき、人は用心深い。むしろ、未知への挑戦が感性を磨き、経験を大事にし、防御を高めることも真実なのである。



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この記事へのコメント
はじめまして。

いつも楽しくブログ読ませて頂いています。
最近登山をはじめたひよっこです。僕にとっては未知の領域で登山は挑戦的な位置づけです。だからいつも大丈夫かな、怖いなって想いです。でもそうならないようにどうすべきか考え、体験して乗り越えていこうと思ってます。
まだまだ山を心から楽しむ余裕がないですがいつかは冬山もって思ってます。

ブログ読みながら身に締まる想いでした。

orangesly0710orangesly0710
2016年06月19日 05:29
orangesly0710さん こんにちは

これは私の文章では無く、文登研の柳沢昭夫さんの綴ったものです。
この記事を読んで頂き、コメントまで頂いてしまい、とても嬉しいです!


>未知の領域で登山は挑戦的な位置づけ

誰にとっても、そうあるべきだと思います。
今は情報が氾濫し、道具が進化し、登山用品量販店の経験の少ない店員さんが売りたい道具を売る時代です。

>いつも大丈夫かな、怖いなって想いです。でもそうならないようにどうすべきか考え、体験して乗り越えていこうと思ってます。

情報は選ぶべきモノです。どんな人が言ってるのかを考えましょう。夏山を毎年2~3回の人でも、20年続けていれば、登山歴20年のベテランに見えてしまうのです。

単独行は危険だと言われ、遭難滑落の大半を単独行が占めても。
自分で危険を予想し、対処し、迷い、行動するからこそ、単独行は1番成長出来る手法です。
最近の”カタログ雑誌のような山雑誌”ではなく、古い雑誌を読んで下さい。”今の岳人”ではありません。”岳人”が”岳人らしかった”時の岳人を読んで下さい。

困難を好み、危険を嫌えば、命は長持ちします。

同じ名古屋、これからもよろしくお願い致します。
お気に入り登録と読者登録させて頂きますね。

※※の見習い※※の見習い
2016年06月19日 16:39
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